足が絡まっても、踊り続ける

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「アルマーニ」の泰明小はなぜ叩かれる? 制服と名門校が顕在化させたモノ

制服代一式9万円弱と報道され、世間を賑わせた銀座・泰明小学校の「アルマーニ」導入問題。公立小学校の制服で有名ブランドを取り入れるなど、中々の混迷ぶりだと世間の目には映ったに違いない。当の私も、地元の公立小中学校で少年時代を過ごした身であるため、全く理解できなかった。

 

gendai.ismedia.jp

 

アルマーニ制服導入はそれほど誤っていない。

いや、狂ってはいない、と言った方が正しい。

 

あなたが小学生だったら、この学校に入りたいと思うだろうか。私は、親が入れてやるというのなら入ってやってもいい。

どうだろうか。皆さん、入りたいですか。

 

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今年23歳を迎える身であっても、アルマーニのお店なんて足を踏み入れることさえ恐ろしい。超着てみたいもん、アルマーニ。だってそうでしょう、まだお母さんの乳房を吸っていたことが記憶に新しいはずの小学生がソレに袖を通せるなんて、どう逆立ちしても羨ましくないはずがない。

 

議論のポイント

議論のポイントは様々だ。「公立小学校でやる意味」「貧富の差の拡大を助長」「保護者達は納得しているのか」という事が主に焦点となっている。

 

しかしこれらの中でも『高い制服代の是非』についての議論は無用である。リンクを読んでいただければわかるが、「9万弱」の内訳や他の学校と比較してみると、目ん玉が飛び出るほど高いというわけではない(と思う)。

 

そもそも「値段」への評価は相対的なものであるため、制服導入校の制服代の、特に都心の相場について知らなければ、社会的奇異に映るのは当然だ。従って「制服代」についての議論は無用である。

 

本当の問題は何か

なぜこれほどまで大々的に報道されたかと言えばアルマーニ」のインパクト、そして小学生の制服代が「9万円」という異常さだ。

 

結論から言えば、メディアの報じ方に大変問題があるのではないか。「アルマーニ」という高級ブランドに目がつきすぎてしまい、本質を見失わせている。そして制服代「9万円」ということであるが、これだけ見ると確かにとてつもない額である。

 

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引用『銀座・泰明小が「アルマーニ服」にこだわらざるを得なかった理由』

 

しかし実際は、夏・冬用のジャケット・ズボン、シャツ・ブラウス、ベスト、セーター、靴下などの一式で9万円弱、そしてブランドはアルマーニ。これを高く見るか安く見るかは人それぞれだけれど、決して叩かれるほどの値段ではない。そして銀座の泰明小学校だ。普通の公立小学校とは明らかに違う。しかも、公立の小学校の制服代だって決して安く済ませることは簡単ではない。

 

だから本当の問題は「貧富の差の顕在化」なのではないかと考える。

 

貧富の差の顕在化

私立大学に入学するとわかる。マジで金持ってるやつ多過ぎる。育ってきた環境の差は、後に子供に与える影響は大きい。金銭感覚とはその人の価値観の一要素を成すものだ。

 

身をもって様々な人間と関わることで思うのは、お金持ちがお金持ちだけのコミュニティを形成することは、それほど疑義を呈することなのだろうか、ということである。元々見えなかったものが浮き彫りになったというだけで、貧富の差は様々な形で人々のもとに根付いている。

 

泰明の在校生を知る女性に特色を聞くと、「泰明小は、地元の帝国ホテルや百貨店、一流レストランと交流する授業があるそうです。画廊巡りもするんですよ」と教えてくれた。

 

普通の少年時代を過ごせば、アルマーニの制服を採用した銀座の名門校に小学生を通わせる保護者に対して何か一言いいたくなる気持ちはよくわかる。けれどその感覚の根底にあるドロドロとした内的な心情を見直すべきかもしれない。子供に一流の教育を施したいと思う親の気持ちは決して否定できるものではなく、アルマーニ」はただその「一流であること」に対するブランディングでしかないのだから。

 

結び

本当に、本当に悲しい事だけれど、貧富の差がこれから縮まるとは思えない。大事なのは金銭だけでなく、子供自身がどれだけ心にゆとりが持てるかという事であって、別にアルマーニで身を包まれなくても幸せは感じられる、というのは極論だろうか。

 

「お受験戦争」が取りざたされてから久しくなるが、それが銀座の名門公立小学校にも波及したという事で、今回の騒動は元々あった貧富の差を顕在化させただけだと私は考える。「価値」を伝えるためにはブランディングほど重要なものは無いように思う。しかし、アルマーニの制服というインパクトが強すぎて世間の反感を買ってしまった。

 

教育を取り巻く環境を考えることは本当に難しい。

 

 

子供の表彰状は親の自慢、しかし才能はその内容にある

今週のお題「表彰状」

 

 

体育館の天窓から光が射す朝の朝礼を、今でも思い出す。まだか、まだかと逸る気持ちを抑え、自分の名前が呼ばれると、全校生徒の前に控えめに立ち、校長先生から表彰状を受け取る、あの瞬間が快感だった。自分だけは他と違う特別な生徒であるのだという様な感慨に浸っていた。

 

僕は表彰されたくて仕方がない子供だった。賞状を祖父母の家に持っていけばお小遣いがもらえたからだ。だから、一位だとか二位だとか、大賞さえもどうでもよく、佳作であればよかった。そしてなぜだか、習字だとか絵だとか作文だとか、マラソン大会などでしょっちゅうその手の賞をもらっていた。と言っても、校内のコンクールだったので大したものではないのだが。

 

両親も喜んでくれていたと思う。なぜ彼らは嬉しかったのだろうか。他の家庭に自慢できるからだろうか。自分の子供が他の子たちより秀でているという希望を見出すことができたからだろうか。今となってはわからないけれど、表彰状を集めることに躍起になっていたのは、彼らを喜ばせたかったためでもあっただろう。

 

高校になると、やはりその分野に特化した、又は才能を磨いた子供たちが表彰台を席巻し始めた。もはや勢いだけでは通用せず、ギターを思いのままに弾いていただけの僕は他の生徒たちとただ同じ、決して秀でることはなく、むしろ部活動ヒエラルキーが強く根付いた高校においてはみ出し組のうちの1人になった。

 

両親は心配に思ったに違いない。うちの子供は他の子供と同じで、特に何かについての才能があるわけでもない。何より自分たちの子供だ。優秀であるはずがないと。

 

子供が賞状を取れなくなったら平凡か。神童も二十歳過ぎればなんとやら、とは言うが、彼らにとって僕はある意味で「神童」であっただろうか。

 

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自分の子供が自慢できるかどうか確かめるのは簡単で、子供たちを均一的に並ばせ頭一つ出ている子供を選べばいい。しかし、才とはなんだろうか。それは必ずしも相対的なものとは限らない。その才を生かすも殺すも親の次第が大きいように思える。

 

賞状の有無ではなく、その子が何を綴ったか、何を描いたのか、それを見てやってほしい。子供の才も、一生見出されずにいられる事だってある。もちろん、子供がやりたいことをやらせることが一番ではあると思うが。

 

今では朽ち果ててしまったと感じるが、僕は文を綴る才能がそれなりにあったらしい。もっとあの頃に磨いていれば、と思わずにいられない。そうでなくとも、それが才能だと言ってくれる大人がもっと周りに、身近にいたのなら、今はもっと違ったことをやっていたのかもしれない。

 

 

夢で出会ったあの人にもう一度会いたい

夢を見た。彼女は知らない女の子だった。けれど、それはずっと出会う事を予期していたような、待ち望んでいたような、そんな瞬間だった。人懐っこいような笑顔を浮かべながら、どこか遠くにいるような透明感をまとった彼女と、もしかしたら過去に夢の中で出会っていたのかもしれない。それほど、心地よく、とても懐かしい時間だった。

 

わたし、この子と寝るから。そういった彼女は、スクランブル交差点ですれ違う僕の手を急に引いて彼女の世界に連れ出した。来るでしょ?そう訊ねられた僕は頷くほかなかった。

 

彼女の部屋は殺風景で、和室の真ん中に引いた布団の中には力士の様な大男が裸で寝ていた。彼女の友達の男女二人が何故か僕らの隣に居て、その光景を見てブちぎれていた。ちなみにこの時僕はセーラー服を着て化粧をさせられていた。

 

彼女と裸になり、部屋から出て、コンクリート造りのアパートの踊り場から外を眺めた。これをみせたかったんだろ、と彼女に言うと、満足げな微笑みを返した。灰色に染まった空には、線で紡がれた透明な魚が泳いでいた。

 

彼女はバスタブに一杯になった汚水をしきりにバケツで汲んで、排水溝に流した。私がこうしなくちゃ、誰も幸せになれないでしょ、そういった彼女の横顔は寂しそうだった。

 

不合理で、退廃的で、空は滲んでいる。

それなのにどうしてこんなに、妙にエロティックで、甘美で、切なく物悲しい気持ちになるのか。

 

もしかしたら、これは僕の深層心理の願望を表しているのかもしれない。彼女にもう一度会いたいが、あたりまえのように彼女はこの現実には存在しないし、もっと言えば今日の昼下がり僕が夢に見たあの素晴らしい灰色の世界もまた存在しない。

 

なんて悲しいんだろう。

冬のテラスで飲むホットワインが良い 吉祥寺にて

今年こそ、寒いうちにテラスでホットワインを飲んでおこう、という思いが胸にあった。春が来てしまう前に行こう、よし、明日こそ絶対に行こう、と決めた。低血圧だから、早起きをするために前日は気合を入れて寝た。早く起きすぎてしまった。

 

10時すぎごろ、外に出る。とてつもなく暖かい。二月中旬ってこんなもんだったっけ。当初の目的を忘れた。これじゃ暖かい中で熱くしかも甘ったるいワインを飲むというだけの苦行である。

 

ヒートテックを脱いだ。セーターも脱いだ。ああ、超寒い。これでいける。荻窪で降り、二駅分ほど歩いた。写真を撮りながら歩き、途中で昼食もはさんだため2時間弱かかった。吉祥寺に着くころには一汗かいていた。

 

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公園口の方から、マルイの道を抜け、公園の入り口辺りにあるバー Inokashira Kitchen に着く。吉祥寺に来るたびにここで一杯飲んでいる。テラス席も開放的で、人の流れが観ていて飽きない。本当に様々な人々が流れを作る。こんな流れの中を、僕もさまよってきた。

 

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ホットワインを頼む。その頃には、僕は既にシャツ一枚になっていた。歩きすぎた…熱い、ビールが飲みたい。けれどもうここは意地で、ホットワインを頼んだ。お姉さんが微妙な顔をした。

 

お姉さんが持ってきてくれました。

 

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一口飲む。うわあ、おいしい。スパイスの香りを芳醇な赤ワインが包み込み、コクのある甘さを生む。クセになりそうなクセ。身体も丁度クールダウンしてきたので、セーターを着た。もう一度すする。おいしい。冬の平日にテラス席で嗜むホットワインは、確かにうまい。

 

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ちいさな春も見つけました。暖かいしいい天気だし、文句のつけようがない一日だ。寒すぎてもきっとすぐ冷めてしまう。少しだけ肌寒い、小春日和を感じるこの時が本当に心地よかった。

 

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帰りの中央線。

よそ見しながら歩いて2時間弱かかったが、二駅なんて電車に乗ればものの5分だ。動く速度のことではない。目的をどこに置くかでこんなにも違う道中になることに、初めて気づいた。