足が絡まっても、踊り続ける

映画家になるまでの記録。映画、読書、喫茶店。

カメラを買うタイミングがわからない。

カメラを買おうと思った

 

大学1年生の頃、俺には年上の恋人がいた。彼女は、よく俺の手によって自分の姿を写真に収めさせたがった。いやいや携帯を取り出して撮った写真を彼女に見せると、だいたい不満そうな顔をしたものだが、十回に一回は満足そうに頷いてくれた。

 

もっと綺麗に撮ってやりたいと思った。しかし、携帯じゃどうも格好がつかない。公衆の面前で携帯を取り出して、その画面から彼女と向き合うのがなんとなく気恥ずかしかったのだ。だから、カメラを買おうと思った。ちゃんとした、一眼とか言う奴を、だ。

 

その恋人とも、一年足らずで別れた。結局カメラを買うタイミングを逃してしまった。

 

カメラを買おう。この季節は、毎年そう思う。

 

日が傾き始め、澄んだ空気の中、橙の光が屈折し、木や土に、新しい命を息吹くような美しい景色が形作られる。その姿を大切な人と共有できないことをもどかしく感じるから。自然だけでなく、立派な建物にも平等に夜は訪れるのだけど、それを知らせるかのように街を橙の色で埋め尽くす景色が、一瞬であるがために、毎日訪れるその時間が短すぎるために、この目に焼くだけでは勿体ないと思うから。

 

カメラを買おう。

この季節は、毎年そう思う。 けれど、カメラを買うタイミングがわからない。

ついでに言ってしまえば、その景色をみせたくなるような人が俺にもできればな、と思う。

もしできたなら、いますぐにでも買いに走るのに。

生まれ変わったら、お前になりたい。

たしかいい具合に酒もまわってきた頃、そんな風に友人に言ったことがある。俺の記憶が正しければ、彼は少し照れて「お前に言われると嬉しいよ」とかなんとか返してきた気がする。彼も大分酔っていたのだろう、思い返すと何とも恥ずかしいやりとりである。そして彼は、また俺の方を見て一拍置き、遠慮がちにこう言った。

「実は…俺もお前みたいになりたいと…思ったことは一度もないけど、おまえのことは良いやつだと思ってるよ」

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生まれ変わったら誰になりたいか、と訊ねられて、具体的な人名をすぐにでも挙げられるだろうか。こんな人生を送ってみたい、とか、こんな容姿になりたい、ならともかく、この人になりたい、と言うことは少し億劫に感じるかもしれない。人によっては、もしその人名を挙げれば、それは私の理想像でありつまり今の自分の裏返しなのだ、と暴露することにもなり得るからだ。

例えば私はエレファントカシマシのボーカル、宮本浩次に生まれ変われるなら是非ともなりたい。どこか物悲しい雰囲気をまといながらもたくさんの人に愛される彼の姿はとても魅力的だ。しかしどうあがいても彼にはなれない。「こうなりたい」という思いを抱くという事は、おそらく共通するものがあるにはあるのだろう。しかし「彼になりたい」と願ったとき、わたしたちにないものが顕在化されてしまう。

 

 

「こうなりたい」と「こうありたい」は決定的に違っていると思う。前者はある種の変身願望で、後者は実現可能な限りの理想像なのだろう。

一般的に、就職活動においては後者の実現が求められる。希望に叶う職を得るという事は、理想のライフスタイルの確立だったり理想の人物に近づくためのものであるということができるが、きっとそれは二十数年間付き合ってきた自分と相談し、それが本当に自分に合っているかどうかと向き合いつつ求める物だ。

「こうなりたい」とは変身願望であると述べた。それは、今の自分を捨て、誰かになるという事だから。実際にエレカシのみやじと俺の中身が入れ替わってしまっても困る。決定的に違う誰かになりたい。それは、自分にないものを認める行為だ。

 

 

周りの友人に、どれだけ全力のリスペクトを抱くことができているだろうか。「生まれ変わったらお前みたいになりたい」とは、どうあがいても俺はお前みたいにはなれないし、俺に持っていないものをお前はたくさんもっているんだ、と認めることでもある。素直にそんなことを言えるような人物と、この先幾人と繋がることができるだろうか。

俺にはできないことがたくさんある。

それを平然とやってのける彼を全力でリスペクトしているし、なんだかんだ彼も「俺にないものをお前はたくさん持っているよ」と言ってくれた。言わせたわけではない。

 

 

誰かを羨ましいと思う。

自分には無いものが多すぎるとも思う。

こうなりたい、と認めるとき、多少の苦しさがぬぐえない。

けれど、人には本分というものがある。

無理に抜け出そうとしないで、今の自分にできることを見据えて納得できればいいな。

「あけましておめでとう」と言うのが、恥ずかしかった。

俺は、誰かに「あけましておめでとう」と言うのが、恥ずかしかった。だから、誰にも言わなかった。文字に起こすのも憚られ、「あけましておめでとう」というメールさえ送らなかった。「あけましておめでとう」と誰かに言われても、断固としてそれを使わなかった。

そんなときも、たしか「おめでとう」という5文字でキザったらしく返した覚えがある。

「あけおめ」なんてもっと恥ずかしい。語感が間抜けすぎる。

 

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特に「あけまして」の部分が恥ずかしい。様式美といえばそれまでなのだが、敬体以外の選択肢がないのだ。何となく固く、けれど俗っぽい。

先日まで馬鹿話していた友人に、年が明けた途端、出会うや否や

「えー、その…あけましておめでとうございます」

なーんて少し目をそらして言われた日にはもう敵わず、こちらもちゃんとした返事を返すべきなのだが、なんとなく気恥ずかしい面持ちで「あ、うん、あけましておめでとう…今年もよろしくね、へへっ…」と無難に言わざるを得ない。

第一、そのような状況に追い込む方も追い込む方である。

 

そもそも、「あけまして」なんて言葉を普段は使わないだろう。「~て」という連用句と「おめでとう」という感動詞の組み合わせは、やや不自然なのだ。

(例1)「結婚して、おめでとう」

(例2)「成人して、おめでとう」

何となくおかしい。やはり、形式ばった言い方になってしまう。

 

それでは、例えばなのだが「~て、良かったね」はどうだろうか。

(例3)「夢の中でローラと同じ布団で眠れて、良かったね」

(例4)「初めて彼女と夜を共に過ごした時、アイツの衣服を静かに脱がせたら、背中にタトゥーがビッチリ入っていて、良かったね、アレは」

うん、イイ感じに欲望が溢れ出していて良い。

 

やはり「~て」と「おめでとう」の組み合わせは、固くなりすぎる気がする。にもかかわらず、その言い回しは巷に溢れ、俗っぽさがぬぐえない。

だが、個人的に「おめでとう」は悪くないと考える。やはり、悪いのは「あけまして」、お前だよ。こいつは新年だけでかい顔しやがるんだ。

 

俺と同じような思いを抱いている方がどれだけいるだろうか。みだりに使われ続けていることを鑑みると、あまりいないと思われる。だが一応、解決策を提示しておきたい。

 

正月明け、とあるニュース番組が、天皇陛下による新年のあいさつをとりあげていたのだが、陛下の冒頭のあいさつに目からうろこが落ちた。

陛下が市民に向かって最初に言い放った言葉は

「新年、おめでとうございます」

というものだった。

 

これは衝撃的だった。

新しい年が訪れたことを表現する動詞を使わずして、昨年を無事に過ごせたことで今年も新年を迎えることができました、という祝いの辞を述べるとは。

 

これで来年こそ、ちゃんと挨拶ができそうだ。

 

皆様、遅くなりましたが、新年おめでとうございます。

美しすぎる初恋の幼馴染と再会した。

それにしても、少年時代の美しい幼馴染と、22歳になって再会するというのは、それだけでありふれたドラマのようだ。

しかし、そのドラマのようなシーンを、ただの美談に仕立て上げられるほど私は強くなかったようだ。

 

昨晩、初恋の人と再会した。

まともに話すのは5年以上前だ。

彼女は何かが変わっていたようにも思えるし、何も変わっていなかったような気もする。

上京する前の記憶通り、相変わらず美人で、どこかに憂いを漂わせながらも優しく素直な子だった。

 

しかし何かが彼女の人生を変えてしまったのは事実らしい。

それは、私の知らない彼女が学生時代に受けたイジメであり、何かのツテで聞いたがそれが原因で学校に行かなくなってしまったと記憶している。

 

私には、目の前にいるこの綺麗な女性が、何故いじめを受けなくてはいけなかったのか理解できなかった。

けれど、理解はできずとも、彼女がいじめを受けたという事実は元からそこに存在していたかのように説得力を含んでいた。

 

彼女には不思議な影があった。

かなり美人なのだが、教室の隅で、ぱっとしない女の子とつるんでおり、いるかいないのかギリギリの所在にある、今思えばアレはかなり異常な光景だった。

それが私の知っている最後の彼女の姿である。

 

もしかしたら彼女はいじめられていなかったのかもしれないし、事実が歪曲されていたのかもしれないが、それは誰にもわからない。

 

彼女が幸せだったらそれでいい。

何かができるとは思わないし、とても利己的な自覚はあるし、一方的に彼女を不幸な女だと決めつけたいだけなのかもしれない。

ただあの怪しげな雰囲気を携える美しい横顔を、かつての面影を、東京で汚れてしまったこの眼に焼き付けたいだけなのかもしれない。