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トランスジェンダーとゲイの違い? なぜ今LGBTなのか映画で紐解く

最近とても話題になっているLGBTとは何か、あなたは知っているだろうか。今回はいわゆるセクシャルマイノリティについて、映画の知識を交えて解説していく。

 

LGBTと映画

まず、LGBTとはセクシャルマイノリティの人々を指す。

レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーの頭文字をとったものであり、L(レズビアン)、G(ゲイ)、B(バイセクシュアル)、T(トランスジェンダー)ということ。レズ、ゲイは同性愛者を指します。バイは両性愛者のことですね。

 

それではトランスジェンダーとは?という前に、少し映画の話を。

 

最近、LGBTを扱った映画が増えているのではないかと思う。例えば洋画だと『リリーのすべて』『アデル、ブルーは熱い色』『私はロランス』『キャロル』等がそう。聞いたことあるかもしれない。

 

先日公開された、生田斗真が女性を演じた映画『彼らが本気で編むときは、』もそうですね。僕が書いたその作品の記事も併せて読んでくれると嬉しい。

works-movie.hatenablog.com

 

しかしながら、昔からそういったテーマを扱った映画は少なからず世に送り出されていた。

例えばトム・ハンクス主演の『フィラデルフィア』は、エイズの知識がまだ人々に定着していなかった時代に、ハンクス扮するエイズを患ったゲイの男性が、エイズのために不正解雇されたとして会社を訴える話だ。

ショーン・ペン主演作『ミルク』は、初めて同性愛者であることを公表した市議会委員のハーヴェイ・ミルクの伝記映画だ。

 

これらが公開された当時は、まだまだ同性愛者に対する偏見が世に根強かった。これらが公開されたときは、世に衝撃を与えたに違いない。

特に、『グッド・ウィル・ハンティング』『エレファント』のガス・ヴァン・サント監督は、『ミルク』を撮った際、自らも同性愛者であることを公表している。 

 

映画におけるゲイとトランスジェンダー

さて、ゲイとトランスジェンダーの違いについて具体的な映画を挙げて説明したいと思う。

最近話題になった『怒り』という映画をご存じだろうか。

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                (c)2016映画「怒り」製作委員会

 

この映画で、妻夫木聡綾野剛は同性愛者のカップルを演じている。濃厚なラブシーンもあり、素晴らしい演技に魅せられた人も少なくないはずだ。

さて、なぜこの映画を取り上げたかというと、彼らの演技において従来考えられていた所謂“オネエ”や“オカマ”というような仕草を連想させる演出が一切なかったからだ。

その点でも彼らの演技が評価されている所以である。

彼らは、従来考えられている過度な「同性愛者像」を表現することなく、普通の男が男を愛する役に徹した。

コッテコテのオカマパフォーマンスをやってみせる映画は多々あったものの、この映画における彼らは、普通の男性として生まれ、ただ愛する対象が同性だったというだけのことなのだ。

参考にしてほしいのが『ブロークバック・マウンテン』という作品である。

これらも愛し合った二人の男性をひたむきに描いている。

 

次にトランスジェンダーのこと。

対する『リリーのすべて』、『彼らが本気で編むときは』について。

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(C)2015 Universal Studios. All Rights Reserved.

前者についてのあらすじはこちら。

世界で初めて性別適合手術を受けたリリー・エルベの実話を描いた伝記ドラマ。1926年、デンマーク。風景画家のアイナー・ベルナーは、肖像画家の妻ゲルダに頼まれて女性モデルの代役を務めたことをきっかけに、自身の内側に潜む女性の存在を意識する。それ以来「リリー」という名の女性として過ごす時間が増えていくアイナーは、心と身体が一致しない現実に葛藤する。ゲルダも当初はそんな夫の様子に戸惑うが、次第にリリーに対する理解を深めていく(映画.comより)

そう、トランスジェンダーとは、心と身体の性別が異なるということ。

ちなみに、『彼らが本気で編むときは、』の生田斗真が演じるのは、身体は男なのに、心は女に生まれてしまったりんこという女性だ。

これはまた、上記で書いた同性愛とは異なり、自認の問題で、映画でもその苦悩が描かれることもしばしばある。

本作では、(自分の中で自分は)女なのに男の格好をさせられて、体育の時間は上半身裸で、しかも理解も得られず「オカマだ」とクラスメートから囃し立てられるような心苦しいシーンを含め、そんなりんこの過去も上記の作品では描かれている。

 

上記が同性愛を取り上げたことに対し、こちらはトランスジェンダーという性と身体が逆転した人物を描いている。

これらが描くのは、例えば「オカマ」などと揶揄されてきた先ほど述べたような従来の「同性愛者像」に近いものかもしれない。

しかし、ひたむきに自己の内面を映し出したこれらの作品は、セクシャルマイノリティの中でも、特に語られることのなかった部分に光を当てたものと言える。

 

 

なぜ今LGBTなのか

上記の通り、こういった同性愛者や、エイズへの正しい認識を改めようという映画活動は今に始まったことではない。しかしながら、今日の映画における大きな違いとして、そういったセクシャルマイノリティへの理解が少しづつ高まっており、日本でもそこに焦点が当てられ始めているという事だ。

 

ところで、日経ビジネスの特集によるとLGBTの比率は日本の場合、人口の7.6%だという。もう遠い空の下の話だという認識はおそらく変わってきている。

これが意味するところは、ただ『セクシャルマイノリティは意外といるのだ』ということだけでなく、『自己の性について認めることができる機会が増えた』ということ、そして『性に対する認識が深まった』ということではないだろうか?

 

今や、男らしさ、女らしさという言葉さえ意味をなさない。

そんな表現はいまや、リテラシーとしてウェブメディア上で使ってはいけない、と職場の上司に注意されたことがある。

男が女のような恰好をすることや自己の性について公表することに対しては、珍しい事ではなくなり過剰に反応することさえ野暮なことだと感じるようになった。

一方で、ちょっとした男女差別的な言動がきっかけでインターネット上では大炎上が起きることなども少なくなく、男女に境界を見出すことに対して世間の目は厳しくなった。

 

男と女の役割は、明確に規定されなくなった。

女性の社会進出が進み、家事だけでなく子育てに関しても女性だけの仕事だと言われることは最早アナクロリズム的な発想と化している。

男女という枠組みが問いただされ始めている今だからこそ、LGBTという一筋縄で解決することのできない問題に焦点が当てられているのではないだろうか。

 

特に映画がその影響を強く反映しているのは、人を映し出すからだと考える。

セクシャルマイノリティという、姿かたちや内面を捉えるにはうってつけのテーマであるから。

これから、性差に苦しむ人々の生の声が、映画だけじゃなくていろいろな媒体で表現されていけば、社会の仕組みも何か変わっていくのではないだろうか。