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映画喫茶 Bande à part バンドアパート

映画家になるまでの記録。映画、読書、喫茶店。

「泣ける映画」「感動大作」という宣伝文句に抱く違和感の正体

時々一緒にお酒を飲む初老の新聞記者がおしゃっていた。

 

「ある有名な小説家も言っていましたが、泣ける話をただ創作するのは難しいことではないというのは本当ですよ」

 

映画の広告で作品を売り出さすための「涙」や「泣ける」という文句を目にするたび、かすかな違和感を抱く。それだけでなく「感動大作」とまで銘打たれたものをみると、身構えてしまわずにはいられない。

 

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この違和感の正体は一体なんなんだろう。

そのような違和感を抱いてしまう、という人は少なからず一定数あるらしい。

「お涙ちょうだい」というような揶揄が成り立つのはそのような意識が共有されているからだ。それが悪いかどうかは置いておく。

 

ちなみに僕は動物が絡んでくる映画では大体泣きます。

 

「泣くこと」のカテゴリー化

 

とにかく泣ける映画を教えてくれ、と友人に訊ねられることがあり、そんなときは自信をもって紹介できる作品を教えてやる。僕が涙で顔をぐちゃぐちゃにした映画を教えてやる。

でもそんな作品、そうそうない。心から泣いた作品に出合う事なんてごくまれだ。

 

泣ける映画が悪いのではないないし、泣ける映画を泣ける映画として紹介することにも何の不満を抱くわけでもない。

ただ、広告という媒体が記す「泣ける」「感動」という文字はどうしてここまで無機質でなおかつ押しつけがましさを孕んでいるのだろうか。

あたかもその作品の魅力が “涙を流すことのみ” という方向への一本化が図られているような印象を抱いてしまうからだろうか。

 

ただ映像作品を、泣けるからこの映画観てください!というように宣伝するのは、僕が作成者だったら、涙を流しただ消化してもらうためだけに作ったんじゃないのにな、感動という観点からのアプローチしかできない単純な作品じゃないのにな、なんて思ってしまうかもしれない。

 

作家性とビジネスの両立は極めて難しい。

 

泣けることや感動することというのは、映画館まで足を運ばせたいと人々に思わせるためには十分な宣伝素材になっており、それはまた映画を評価するうえでとても大事な判断基準になっている。

それを否定するつもりは毛頭ない。

けれど、僕があまのじゃくだからか、泣けるか感動するかどうかは僕が決めたいし、最初から感動する映画だときかされていれば、ああここが感動させたかったシーンね、なんて作品との距離ができて盛り下がってしまう。

 

他の人の意見

 

出典:作品を「泣ける」と紹介することについて - Togetterまとめ

 

「泣ける」っていう評価って「ヌケる」「エロい」と本質は変わらない気がする、そういう感じで泣きたい人用っていうか…

 

自分がやがて抱くであろう感情や感想を誰かに定義されたく無いし大衆と同じにされるのが嫌なんだよなぁ……だから「全米が泣いた」みたいな紹介文に興味わかないし「女性ならみんな好き」みたいなやつは関わりたくないって思っちゃう

 

なるほどなぁ。

と、僕はすごく納得した。

気づかないうちに大多数のうちに組み込まれている……

その心地の悪さが先行してしまうのかもしれない。

 

涙を流すということ

人が何かの作品に対して涙を流すときは大きく分けて3つのシチュエーションがあると思う。

 

1.作品の人物、言葉に感情移入する

2.作品に感化され、自分の思い出や過去を思い出す

3.作品と才能に圧倒され何故だかわからないけど涙を流す

 

僕は割と映画館で映画を観るとわけわからず、3.の涙を流す。

そして2.の涙はその人のコンテクストの上にある現象だ。

涙を流すかどうかは作品によるものであって、僕らの感情は決して広告に左右されてはいけない。

 

涙を流すってどういうことなんだろう。

涙を綺麗にしうるものってなんだろう。

全米が泣いた映画を観て同じように流した涙にどこまで価値があるんだろう。

 

とある有名作家が言ったらしい。

人を泣かせる物語を創作するというのはそう難しい事ではない、と。

では涙を流すとはどういうことで、どんな価値があって、どこまで人の人生を変えるのか。

 

泣ける映画が悪いわけではない。じゃあ何が悪いのか、っていう事を明らかにすることなくこの記事は終わります。そしてよくわからない終わりを迎えます。ごめんなさい。