足が絡まっても、踊り続ける

映画家になるまでの記録。映画、読書、喫茶店。

生まれ変わったら、お前になりたい。

たしかいい具合に酒もまわってきた頃、そんな風に友人に言ったことがある。俺の記憶が正しければ、彼は少し照れて「お前に言われると嬉しいよ」とかなんとか返してきた気がする。彼も大分酔っていたのだろう、思い返すと何とも恥ずかしいやりとりである。そして彼は、また俺の方を見て一拍置き、遠慮がちにこう言った。

「実は…俺もお前みたいになりたいと…思ったことは一度もないけど、おまえのことは良いやつだと思ってるよ」

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生まれ変わったら誰になりたいか、と訊ねられて、具体的な人名をすぐにでも挙げられるだろうか。こんな人生を送ってみたい、とか、こんな容姿になりたい、ならともかく、この人になりたい、と言うことは少し億劫に感じるかもしれない。人によっては、もしその人名を挙げれば、それは私の理想像でありつまり今の自分の裏返しなのだ、と暴露することにもなり得るからだ。

例えば私はエレファントカシマシのボーカル、宮本浩次に生まれ変われるなら是非ともなりたい。どこか物悲しい雰囲気をまといながらもたくさんの人に愛される彼の姿はとても魅力的だ。しかしどうあがいても彼にはなれない。「こうなりたい」という思いを抱くという事は、おそらく共通するものがあるにはあるのだろう。しかし「彼になりたい」と願ったとき、わたしたちにないものが顕在化されてしまう。

 

 

「こうなりたい」と「こうありたい」は決定的に違っていると思う。前者はある種の変身願望で、後者は実現可能な限りの理想像なのだろう。

一般的に、就職活動においては後者の実現が求められる。希望に叶う職を得るという事は、理想のライフスタイルの確立だったり理想の人物に近づくためのものであるということができるが、きっとそれは二十数年間付き合ってきた自分と相談し、それが本当に自分に合っているかどうかと向き合いつつ求める物だ。

「こうなりたい」とは変身願望であると述べた。それは、今の自分を捨て、誰かになるという事だから。実際にエレカシのみやじと俺の中身が入れ替わってしまっても困る。決定的に違う誰かになりたい。それは、自分にないものを認める行為だ。

 

 

周りの友人に、どれだけ全力のリスペクトを抱くことができているだろうか。「生まれ変わったらお前みたいになりたい」とは、どうあがいても俺はお前みたいにはなれないし、俺に持っていないものをお前はたくさんもっているんだ、と認めることでもある。素直にそんなことを言えるような人物と、この先幾人と繋がることができるだろうか。

俺にはできないことがたくさんある。

それを平然とやってのける彼を全力でリスペクトしているし、なんだかんだ彼も「俺にないものをお前はたくさん持っているよ」と言ってくれた。言わせたわけではない。

 

 

誰かを羨ましいと思う。

自分には無いものが多すぎるとも思う。

こうなりたい、と認めるとき、多少の苦しさがぬぐえない。

けれど、人には本分というものがある。

無理に抜け出そうとしないで、今の自分にできることを見据えて納得できればいいな。