「お前が死んじまってうれしいぜ、この大馬鹿野郎が!」
そんなことを死んだ後に言われる人間の一生とは、どんなものだろうか。どれだけの悪事を働いたのか?少なくとも、一般的に彼らの人生が幸福なものであったとは考えられない。
しかし沢木耕太郎は、自分の葬式でそんな歌を歌ってくれる友人を幸せと捉えた。
ここには強い語調にたたえられた悲しみがある。うれしいぜという言葉には、天国に行かれてという意味が含まれているらしいが、むしろ反語としての意味の方が大きいように思われる。男が男を埋葬するときの惜別の辞として、恐らくこれ以上のものはない。
『バーボン・ストリート』より
種明かしをすると『お前が死んじまってうれしいぜ、この大馬鹿野郎が』とは、ニューオリンズにおける葬式の行進で、度々演奏される葬送の曲であるらしい。ちなみに、ニューオーリンズの葬式は死者をとても陽気に明るく弔うことで有名だ。
沢木耕太郎はそうやって送り出してくれる友人を、幸せと捉えた。
一般的に受け入れがたい幸せかもしれない。なぜ彼はそう捉えたのか。
一般的な幸せとは何か?
例えば、誰かを羨む時に「あいつはいいよな、外見は良いし奥さん美人だし、おまけに高給取りときたもんだ」と心の中で独り言ちる。どの要素を切り取っても、幸せだと想定でき、なおかつ比べられるものである。たしかに、これだけ揃っていればどれだけ幸せか。
したがって一般的な幸せとは、相対的なもので人と比べて初めて幸せだと肯定できる状態のことと定義したい。
なるほど、テレビでよく見かける俳優やタレント、格好いいし奥さん美人だし高給取りだし人気者だし、さぞ幸せであるに違いない。誰が持つ定規でその程度を測ったとしても、測れるソレのはるか上をいく長さであるはずだ。
しかし欠点がある。比べられるものには上がいるのだ。
どれだけ高給取りになっても、上を見れば息をしているだけでものすごい金が流れてくる資産家がいる。一方で、仲間内で格好いいともてはやされ、勢いで芸能事務所に応募してしまった彼も、その世界に飛び込めば彼より格好のいい人間なんて無数にいるはずだ。
外見にしか興味が無い人間は、自分が世界で一番の美を手に入れない限り幸せにはなれないのだ。
それでは、特殊な幸せとは何か。
それは自分だけが知っていることで、誰かが決める物でも誰かと比べる物でもない、絶対的なものだ。そのように世界を捉える在り方であると言ってもいい。
どんな欠点があっても、自分を肯定してやる。好きなものを好きでいる。そして、納得してやる。誰かを貶めてまで、自分を甘やかす必要はない。
ちなみに俺の幸せは、どこかの飲み屋で意気投合した年上の美しい女性と恋に落ち、運命を噛みしめてその日のうちに夜を共にすることになるのだが、彼女の衣服を脱がすと背中に入れ墨がビッチリ。そうやって、一瞬で切なさを悟ること。
話がそれてしまったが、起きた出来事についてどれだけの幸せを見出せるか、それが一番簡単に幸せになる方法なのではないだろうか。
仕事が終わり、遅い時間に家に帰ると玄関で妻が迎え入れてくれる。アイツの美人な嫁さんのことを思う。とてもじゃないが、俺の妻は彼女に適わない。しかし誰が俺の生活がアイツのものより幸せじゃないと決められようか。
誰かのことを羨ましくなることなんてたくさんある。
ありすぎて困る。
やっぱりお金も欲しいし格好良くもなりたいし、美人な奥さんが欲しい。
どれも持てずにいる。
それでも今の自分が不幸だとは、思わない。
幸せとは、ささやかなところに宿る、そう信じたい。