足が絡まっても、踊り続ける

映画家になるまでの記録。映画、読書、喫茶店。

いつもより、少しだけ丁寧に過ごすということ

今週のお題「ゲン担ぎ」

 

出版社の就職における筆記試験では、必ず作文が課されるそうなので、毎週このお題に答えて練習をしてみる。

 

『ゲン担ぎ』

 

重要なイベントがある前日は、なんとなく間が持たず浮足立ってしまうものである。

 

そんな時に「ゲンを担ぐ」という行為は、「自分を落ち着かせる」行為と捉えることができるように思える。ゲン担ぎと言えば、その人独自のルールにのっとったもので、大抵は神社にお参りにいくというオーソドックスなものから特別なものをたべるといった、言わばマイルールである。また「特別な行為を特別な日の前日に遂行すること」をルーティン化することで、何時もどおりの自分を保つ、という、とても逆説的な行為ともいえる。

 

私は、今までの短い人生を振り返ってみても、ゲン担ぎをしてこなかった。私はゲンを担いでこなかった。本当に担いでこなかった。もしかしたら、ゲンを担がない、ということが私にとってのゲン担ぎだったのかもしれない。

 

重要な日の前日は、大抵何も考えず、読みかけの本を読み、録りだめてあった映画を観て、早めに寝る。特に明日のことは考えなかった。重要な日の前日にそわそわして何も手がつかなくなるのは私も同じだ。だからあえて何もしない。試験前日は勉強もしなかったし、プレゼンの前日に内容を煮詰めるということもせず、その時したいことだけした。

 

そもそも、ゲン担ぎという行為に懐疑的だった。おそらく今更何をしても何も変わらない、そのように自分の中で結論付けていたからだ。運命論者というとかなり胡散臭いものがあるが、そのような意識があった。なるようになる。だから特別に何かをする必要もない。

 

自分を落ち着かせる、またはいつも通りの自分でいるための行為だとゲン担ぎを捉えた時、何も特別なことをしなくても済むのなら、何か特別なことをする必要が無いように思う。

 

ありふれた時間を、少しだけ、本当にすこーしだけ大事にする。それだけで良い。

 

いつもより、少しだけ料理に時間をかけてみたり、小説の一節を丁寧に読んでみたり、大切な人と取り留めのないやりとりをしてみたりする。それだけ。

 

それが、私のゲン担ぎ。