足が絡まっても、踊り続ける

映画家になるまでの記録。映画、読書、喫茶店。

子供の表彰状は親の自慢、しかし才能はその内容にある

今週のお題「表彰状」

 

 

体育館の天窓から光が射す朝の朝礼を、今でも思い出す。まだか、まだかと逸る気持ちを抑え、自分の名前が呼ばれると、全校生徒の前に控えめに立ち、校長先生から表彰状を受け取る、あの瞬間が快感だった。自分だけは他と違う特別な生徒であるのだという様な感慨に浸っていた。

 

僕は表彰されたくて仕方がない子供だった。賞状を祖父母の家に持っていけばお小遣いがもらえたからだ。だから、一位だとか二位だとか、大賞さえもどうでもよく、佳作であればよかった。そしてなぜだか、習字だとか絵だとか作文だとか、マラソン大会などでしょっちゅうその手の賞をもらっていた。と言っても、校内のコンクールだったので大したものではないのだが。

 

両親も喜んでくれていたと思う。なぜ彼らは嬉しかったのだろうか。他の家庭に自慢できるからだろうか。自分の子供が他の子たちより秀でているという希望を見出すことができたからだろうか。今となってはわからないけれど、表彰状を集めることに躍起になっていたのは、彼らを喜ばせたかったためでもあっただろう。

 

高校になると、やはりその分野に特化した、又は才能を磨いた子供たちが表彰台を席巻し始めた。もはや勢いだけでは通用せず、ギターを思いのままに弾いていただけの僕は他の生徒たちとただ同じ、決して秀でることはなく、むしろ部活動ヒエラルキーが強く根付いた高校においてはみ出し組のうちの1人になった。

 

両親は心配に思ったに違いない。うちの子供は他の子供と同じで、特に何かについての才能があるわけでもない。何より自分たちの子供だ。優秀であるはずがないと。

 

子供が賞状を取れなくなったら平凡か。神童も二十歳過ぎればなんとやら、とは言うが、彼らにとって僕はある意味で「神童」であっただろうか。

 

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自分の子供が自慢できるかどうか確かめるのは簡単で、子供たちを均一的に並ばせ頭一つ出ている子供を選べばいい。しかし、才とはなんだろうか。それは必ずしも相対的なものとは限らない。その才を生かすも殺すも親の次第が大きいように思える。

 

賞状の有無ではなく、その子が何を綴ったか、何を描いたのか、それを見てやってほしい。子供の才も、一生見出されずにいられる事だってある。もちろん、子供がやりたいことをやらせることが一番ではあると思うが。

 

今では朽ち果ててしまったと感じるが、僕は文を綴る才能がそれなりにあったらしい。もっとあの頃に磨いていれば、と思わずにいられない。そうでなくとも、それが才能だと言ってくれる大人がもっと周りに、身近にいたのなら、今はもっと違ったことをやっていたのかもしれない。