足が絡まっても、踊り続ける

映画家になるまでの記録。映画、読書、喫茶店。

『恋愛の後遺症』についてのいくつかの考察

どれだけ向こう見ずで甘美な恋のようなものに取り憑かれてきたのだろうか。どの経験を振り返っても、確かに何かを失ったことの方が多かった。何かを得たとすれば、やはり夢を見るような瞬間的な居心地の良さであり、そのどれもが後になって、まやかしの幸福だったと思われるのは、寂しいことだろうか。

 

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…僕が失恋した話をしよう。

 

つい最近、一つの区切りを迎えた。僕はひどく恋をしていました。たった二週間。けれど、幸福と不幸が入り混じった期間だった。

 

この一年間で、本当に恋に落ちたのはどの瞬間か訊ねられたら、間違いなく痛みをくれた女性の手を握って迎えた朝だろう。ただそれも一過性のもので、甘美な夢から覚めてしまってからは何事もなかったように毎日、毎日、ただ繰り返すだけの日々が訪れるのである。

 

恋をするとはひどく陳腐な言い方で俗っぽい言葉であるから嫌いだ。そう表現するほかないから仕方ないのだけど、一つだけ誤解されがちなのはこういう言葉を使うと僕がしょっちゅう誰かを好きになっているのではないかということ。確かに間違ってはいないかもしれないけども、そのような認識は不本意である。

 

ただその時の想いは確かなものであったと、今は言えないが、どの頃の自分に訊ねても、その時の僕は首を縦に振るに違いない。

 

 

 

 

『恋愛の後遺症』についてのいくつかの考察。

 

「失恋」という言葉がある。恋に破れたことを意味する。失恋した時、我々は何を失うのだろうか。まだ好き…でも振られた…、この時我々は何を失ったのか。いや、返すと、恋した時に我々は何を得るのか。恋をするとどうなるのか。

恋をして何かを得ては失う、それは恋人であったり、生活であったり、または物質的なものかもしれない。

 

 

しかし、想いはどうだろうか。目に見えない、あるのかどうかすらわからない。想い。我々は誰かを好きになり、好きだという想いを得て、そうしていつかはそれを失う。好きになるとはどういうことか。恋心なんて信じられるものではないが、恋に落ちている間は、それこそ向こう見ずな好きだというあいまいな感情を、それでも確かな愛情だと信じたくなる瞬間がある。

 

 

夢から覚めると、その想いを失う。確かな愛情だと一瞬でも信じたそれは唐突に砕け散り、片鱗すら覚えることができなくなるのだ。つまり、自分に裏切られてしまうことになる。

 

そんな次の日の朝は、どうしようもなく切ない。心に在った、確か(だと思われた)な感情がそこにはない。やるせない。むなしい。いつまでも浸っていたいとまで思われた甘美な夢から覚め、衝動的な自分がそこにはいない。

 

同時に安心する。もうこれで惑わされることはない。自分は自分で居られる。大丈夫だ、と。代り映えのしない、スタンダードな日々がやってくる。だから、この時の恋愛の後遺症の本質は「何かを失ったような気になる」ことであるのではないか。

 

 

問題は、その痛みを忘れたくない、忘れようにも忘れられないという場合である。失ったはずの想いは徐々に屈折し、その痛みは変質していく。過去の亡霊に憑りつかれ、そのこと以外はもうどうでもよくなり、全てを投げ出して消えてしまいたいとまで思う。

 

この時の恋愛の後遺症は、すさまじい威力を放つ。もうこうなったらなかなか抜け出せない。リハビリが必要だ。これがまたとてつもなく骨が折れる。リハビリで骨を折る、なんて皮肉な話だろうか。

 

 

 

 

恋に落ちると人はもうだめだ。というか、だめにならなければそれは恋だったと言えるのか。

 

だから、どう考えても、全く違う種類の人間に囲まれ、異なる個としての考えに従い、様々な想いを抱きながら生きてきた、全く違う人間に対して、恋心を抱き、頭が狂いそうになって、何にも手がつかなくなって、何かを得たような気になっては、何かを失った気になり、時には何かを奪われたような想いを押し付けられ、時には相手に対して残酷な気持ちを抱き、そんな向こう見ずな恋愛を、人は何度も、何度も、繰り返すのであるが、そんな曖昧な好意を確かな愛情として抱くことは、繰り返すが、どう考えても、蛮勇なのだ。

 

 

愚かなことに、自分も例にもれず、何度も何度も、その曖昧な想いを抱く確かな時間に、愛おしさを抱き、優しささえも感じてしまう。

 

それはまやかしの幸福。

 

 

致死量を超えない程度に幸福の摂取を、人々はまた今日も繰り返しているか。