足が絡まっても、踊り続ける

映画家になるまでの記録。映画、読書、喫茶店。

死にたさ語ることばかり上手になった僕らの世代へ

 

 

死にたくない僕らはいつしかどれだけ死にたいかを語ることばかり上手になってしまった。

 

 

どれだけクソでもクズでもバカでもメンヘラでも、どれだけ汚い男とヤッても、どれだけ綺麗な女に相手にされなくても、そんな人生がどれだけ死んだ方がマシであるかわからないが、重みのない死にたさを僕らは指一本で全世界に発信するようになった。

 

 

「死にたい」がいつしか板につき、「辛い」が言えなくなった。ただただ「辛い」ということが、重すぎて、笑える要素が無くて、行く宛のない感情だからだ。そうして、その死にたさが、本当の死にたさを麻痺させ、辛くもなくなった。それが幸せなことなのか、不幸なことなのか、僕にはわからない。

 

 

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僕にも、どれだけ死にたいかでしか自分を表現できない時があった。

 

例えばそれは大学一年生の頃、受験を終えいわゆる燃え尽き症候群に取り憑かれていた僕は、理想の大学生活と実際の自分との乖離にしばらく悩まされ、それはひたすら辛い時期だった。

 

そんな時でも僕は「死にたさ」をデザインしていた。それをうまくやれば、笑ってくれる人が居るからだ。だから水を得た魚のように、自分の「死にたさ」を胡麻化した。そうすると不思議で、自分の嫌な部分すら個性になり、肯定してくれる人が出てくる。そのうち、自分の「辛さ」を打ち明けることが酷く恐ろしくなった。

 

もちろん、失敗や欠点を笑ってもらえることは、生きていく上では都合がいい。しかし、その表現の仕方を一歩間違えると、自分という虚像を作り上げてしまい、現実と虚像の間の齟齬に苦しむことになる。

 

 

 

———ところで。

 

誰かと向き合って話すよりも、液晶越しにはるかにたくさんの人にメッセージを発信する時代だ。そして、皮相的な、分かりやすい形でしか評価されずらい世の中でもある。

 

そんな時代だからこそ、140字のうちにどれだけ死にたいかで自分を表現するよりも、どう在りたいのか、どう生きていきたいのかを発信する方がはるかに有意義ではないか。

 

フォロワー数、pv数、収益額のほか、容姿や学歴も結構だけど、生身の人や文化に触れることで、本当に心を揺り動かされるポジティブな瞬間を大切にできているかどうか、僕は今一度自分の世代に問いたい。

 

 

 

———

 

 

死にたいという言葉を、電話口の向こうで何度も何度も繰り返していたあの人を思い出す。

 

 

彼女は今でも生きているだろうか。

未だに本当の「死にたい」を抱いたままだろうか。

それを打ち明けられる相手を、見つけただろうか。